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2016.04.04

春になると思い出す小石川の桜、医中誌との再会

 OLだったころ、自分のいた某K談社系の小石川にある小さな製本会社では「読売年鑑」「実業界」「マガジン」などを物理的に製本していた。また、「医学中央雑誌」なる、一般人にはあまりききなれない雑誌もあった。製本工場は第3工場まであり、50人くらいの老若男女が私の何百キロも注文したホットメルトとニッタイトと大量の印刷した紙を折り機にかけ、断裁機にかけ、緑色の製本機にかけ、のりづけし、並製本する。「医学中央雑誌」とは、中身をみても、なんのことやらさっぱりわからない。クロス貼りし、ハードカバーをつけ上製本をする図書館製本も、そこでは請け負っていた。近くの中央大の院生が修士論文を製本してほしいと依頼にきていた。まわりには孫請けの紙折り専門、ハードカバー専門の家内制手工業的な同業者などがたくさんあった。社長室には絶版になった「のらくろ」が揃っており、某皆川製本の社長がきては譲ってくれと執拗にねだっていた。
 私はピンクの制服をきて毎日ただ仕入れ伝票と納品書、請求書、領収証、小切手、手形、売上帳簿を書き、タイムカードを作り、制服を注文し、給与と市民税と社会保険の計算をし、モバイルバンキングをし、たまに回収のまねごとをするだけ。数字が大嫌いで文系に行ったのに数字に追われる経理畑では銀行引退者に囲まれ、仕訳勘定もできなかった私は経理の基本をみっちりそこでお局様に仕込まれ、札を5枚ずつ数えるサツカンもできるようになった。
 司書になるときめた最後の年の春の土曜日、土曜出勤の昼に同年代の営業たちと女子寮にすむ経理の同期とで小石川の神社かお寺あたりでランチをした。とちゅうに東京ドームがのんびり見えた。とても天気がよかった。桜も咲いていた。彼らは私を快く送り出してくれた。その製本工場は、移転して今はもうない。
 その年の秋、グレーの制服をきて、大学に勤めることになった。
 今の病院では黒の制服を着ている。久しぶりに生の医中誌と再会した。インテリアとなっているインデックスメディカスとともに、前任者が製本を1冊、記念に残しておいてくれた。製本業者は司書とともに差別されているので、奥付には製本屋の社名はなかった。
 桜をみると、小石川を思い出す。

(CS)

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